大英博物館で古代の大帝国アッシリアと偉大な王について知る特別展「I am Ashurbanipal」

2018年12月3日イギリスのアート情報, 大英博物館

大英博物館で開催中の特別展「I am Ashurbanipal」(~2019年2月24日まで)に行ってきた。

紀元前の地中海~中東にかけて世界最大の版図を占めたアッシリアという国について、特に最大版図を治めた王のうちの一人、アッシュールバニパルについて紹介する展示。

この展示、個人的に2018年の大英博物館特別展の中でナンバーワンだと思っているので、写真を交えながら紹介したい(※この展示は写真撮影OK)。

アッシュールバニパル王はどんな人物だったか

「余はアッシュールバニパル、
偉大なる王、強大な王、世界の王、アッシリアの王である」

(展示内パネルより)

この展示の前提として、アッシュールバニパルがどんな人物か、ものすごくシンプルにまとめてみよう。

  • 紀元前669年に即位
  • 父、祖父も含め、代々帝国歴代最大版図(東地中海~西イラン)を支配下に治めていた王の一人であった
  • 自身も高い教育を受けており、武力だけでなく知識と知性でもって外交や政策を行った
  • 特に文書収集に熱心で大量の文書(粘土板)を保管していた

特に最後の功績は大きい。彼のおかげで現存する数多くの文書や資料は、現代の古代オリエント研究に大いに貢献している。

※この画像はwikipediaより。パブリックドメイン

薄い方のピンクのエリアが最大版図。かなり広大であることがわかる。アッシリアの首都は当時世界最大の都市であったニネヴェ(地図の中央あたり)。現在はモースルというイラク北部の都市になっている。

今回の展示は、このニネヴェを中心に発展した当時の文化、学問、素晴らしい宮廷芸術、そして王たちの人生と周辺国を巻き込んでいくアッシリア帝国の物語を、まるで1冊の本を読むように見ることのできる素晴らしい展示だった。

「ライオン狩り」の卓越した浮彫

ライオン狩り ニネヴェ 紀元前645~640年

展示室に入って一番に目に入るのは、このレリーフ(浮彫)。アッシュールバニパルが建てたニネヴェの北宮殿の壁の一部だ。三層になっており、それぞれ異なるシーンを表している。

アッシュールバニパル王がライオン狩りをする様子を、躍動感と迫力溢れる表現で描写した傑作である。

馬に乗るアッシュールバニパル王。人体と馬の体、馬の2本の脚の重なりは立体的に表されている。

一番右上から物語は始まる。扉からライオンが放たれる。

王は弓や剣、槍でライオンを仕留める。アッシリアで最も恐れられていた獣であったライオンを制圧することは、彼の強大さ、偉大さを示した。アッシュールバニパルは、自身の類稀な強さを神から賜ったものだと考えていた。

王の衣服の拡大。ごく浅い浮彫で、途方もない精密さで装飾が施されている。見づらいが、腰には2本の葦製のペンが刺さっている。王が武力だけでなく、高い水準の知力を有していたことを誇るものである。

この「ライオン狩り」のレリーフは、博物館内の別の場所にある常設展示室でも見られる。それはこの記事の最後に紹介するので、特別展まで行かなくても…という人もぜひ常設に立ち寄ってみてほしい。無料だし。

ライバルのいない都市、ニネヴェ

首都ニネヴェを建設したのは、アッシュールバニパル王の祖父、センナケリブ王であった。彼は街を囲う城壁を作り、豪華な装飾を持つ宮殿を作り上げた。この宮殿にはアッシュールバニパル王も長い間、自身の「北宮殿」を建てるまで暮らした。

アッシリアの街や宮殿には、この「ラマッス」と呼ばれる人の顔を持つ幻獣が守護獣として立っていた。写真のラマッス像は、この特別展ではなく常設展示室の入口に展示されている(巨大すぎて移動できない)。こちらについてもこの記事の最後で解説したい。

アッシュールバニパル王の祖父、センナケリブ王は自身の宮殿を「ライバルのいない宮殿」と呼んだ。このびっしりと楔形文字が書かれた石柱は、宮殿建設など王が成し遂げた偉大な事業を誇る文書である。こうした文書は重要な建築物の土台に埋められた。

アッシュールバニパル王の北宮殿を守る獣や神々

アッシュールバニパル王が新しく建てた北宮殿には、宮殿を災いから守るさまざまなモチーフが施された。写真の上部に3人並ぶ、ライオンの頭と人間の体、鳥の足を持つこの生物は、ウガルルという最強の守護獣で、権威の象徴であった。

下の人間の顔にライオンの体を持つ生物はurmahliluといい、これも守護獣の一種である。

この神々のレリーフは、アッシュールバニパル王の謁見室に飾られていたもの。当時は彩色されており、今回の展示では、残存する色素から分析した色彩を再現したものを見ることができた。

こちらがその再現である。プロジェクターで色を投影しこのように見せ、また上の無色の状態に戻るというサイクルを数分おきに繰り返す、面白い展示方法であった。

この他、タイルやレンガも彩色されていたというから、当時の宮殿はかなり派手だったに違いない。

当時のアッシリアは優れた文化を持っていた

宴会の様子 ニネヴェ 紀元前700~692年

豊かな食文化(少なくとも王家の)がうかがえるレリーフ。さまざまな果物、オイル、蜂蜜、上質のワインが王家の宴会に運ばれる様子。文書にも宴会に供された数多くの飲食物について記載されている。

ここではブドウ、ザクロ、デーツが見える。他のパネルには、鳥、ウサギ、イナゴが運ばれる場面が彫られているという。

また、アッシュールバニパル王の祖父、センナケリブ王はニネヴェの街中に運河や水道を通し、水源を確保した。王宮の庭にも水道で水が供給されていた。

アッシュールバニパルは大量の文書を収集しており、その数は少なくとも1万点に上るとされる。これらはすべて文書の記された粘土板である。彼の図書館は知識の宝庫だった。知を重要視することの大切さを、この王族はよく知っていたのだ。

文書には主に、神と王が交信する助けになる内容が書かれている。神の教えや縁起について、供え物について、天国の世界とこの世の世界について、また儀式、カレンダー、魔法、医療などの知識も記録されていた。

「ギルガメシュ叙事詩」の原本

こちらが、人類史最古の文学作品の一つ、「ギルガメシュ叙事詩」の原本。古代メソポタミアの伝説の王ギルガメシュについての壮大な物語を書いたものだ。

12章からなるこの叙事詩は、各章が別の粘土板に分けて書かれている。アッシュールバニパル王はこの作品のシリーズをいくつか持っていたというが、すべて未完成であった(つまり、どれもどこかに抜けている部分があった)。

現在翻訳されて出版されている「ギルガメシュ叙事詩」は抜けがあるが、それは原本に抜けがあるからだ。

かなり長い物語だが、これが最長の文書だったわけではない。都市生活の詳細を記録した、吉兆についてのある文書はなんと120章にも及ぶという。

文書を伝達する「道」を作った

広大な帝国内で、文書(手紙)を伝達するのは並大抵のことではない。アッシリアの王は、国内の便利なネットワークのために、特別な道を作った。配達の方法は、運び手は道中の支局で新しい運び手と交代し、控えていた新しい馬で次の支局まで運ぶリレー方式だった。

この道を使えば、国内の端から端まで、わずか数日で文書を届けられた。

郵便制度はすでにしっかりと確立されており、手紙(左の粘土板)は粘土の封筒(左の袋状のもの)に入れられ、印(右)をして配達された。この印が押されたものは王の手紙であることを示し、そこに書かれていることは、誰もが従わなければならなかった。

この時代に、すでに封筒と印が誕生しており、郵便制度まで作っていたとは驚きである。

アッシュールバニパルの王になるための教育

アッシュールバニパルを立派な王として育てるため、父親は幼少期からさまざまなことを彼に教え込んだ。占星家をお付きの教師に任命し、さまざまなことを学ばせた。

子供時代の文字の練習

ここに二つの手紙がある。一つは13歳のアッシュールバニパルが父親に向けて書いたもの、もう一つは彼の教師が書いたものだ。アッシュールバニパルが書いたものはどっちだかわかるだろうか?

 

正解は左。楔形文字がちょっとガタガタしている。苦戦したのかもしれない。数千年前の王家の人物の人間らしさがこんなところに見えて、それがおかしい。右はさすが教師に指名された人物だけあり、綺麗で規則的な文字がはっきりと刻みつけられている。

狩りの仕方、馬車の乗り方も教えられる

戦争のための訓練として、アッシュールバニパルは馬車の乗り方、馬の操り方、弓の使い方なども当然習得しなければならなかった。

狩りの準備 紀元前645~640年

猟犬を連れて歩く従者たち。

この猟犬たちの口に皺を寄せた写実的な表現をご覧いただきたい。今にも唸り声が聞こえてきそうだ。隆々とした肩や力強い脚の表現も見どころ。

ライオン狩り 紀元前645~640年

こちらもライオン狩りの場面。獰猛なライオンを倒す王の勇敢さと強さを示すものだ。一般大衆にとって、王族のライオン狩りは良い見世物であった。

下段では、4頭のライオンに弓を持ったアッシュールバニパルがワインをふりかけている。ワインは女神への供物である。また、ライオンの前の高台は供物台で、肉と玉ねぎが備えられている。そのさらに前方にある台は香炉。

王の後ろでは、召使が二人、葉か羽のような何かを仰いで王に風を送っている。本当に召使が仰いだりするんだ、と面白い発見をした。

多数の国を支配し、交易を行ったアッシリア

この時のアッシリアは、周辺国を多く統治していた。また、帝国外の国とも頻繁に交易を行っていた。その結果、多数の文化が融合してアッシリアに流れ込んできた。

エジプトの影響が見られる象牙装飾 イラク 紀元前900~700年

アッシリアの支配はエジプトにまで及んだ。この象牙パネルには、エジプト風の髪型や衣服を着た人物や、ファラオの王冠を被ったスフィンクスのような動物が表されている。アッシリアの富裕層の間で、このように文化が融合した品物は人気を博した。

アッシリアがエジプトに侵攻する様子はこちら。エジプトの要塞に、アッシリア軍が梯子をかけて登っていくのが見える。

敵国エラムとの戦争

アッシュールバニパル王がエジプトと戦っている最中、アッシリアの敵国のエラムが攻め込んできた。ここでエラムVSアッシリアの戦いが始まる。

ウライ川での戦いの場面 紀元前653年頃

エラムとアッシリアの戦いの様子。最上段の一際大きな馬が引いているのが、アッシュールバニパル王の馬車である。

最下部のウライ川には、死んだ人間や馬、崩壊したエラムの馬車などが流されている。それを魚たちがついばむ。中央の車輪のすぐ左側に浮かぶ男性の遺体は頭がなく、頭の部分に魚が食いついている。凄惨な戦いであったことが一目でうかがい知れる。

テュル・テュバの戦いの様子 紀元前653年頃

もう一つの、アッシリアとエラムの戦いの様子を表したレリーフがこれ。巨大なパネルが全部で3枚並んでおり、これは一番左のパネル。悪夢のようなおどろおどろしい雰囲気で、戦争の様子がリアルに、細かく描写されている。

これは中央パネル。阿鼻叫喚の地獄絵図である。

これを見て、「ああ、これは本当に起こったことなのだ」と、2500年以上前の戦争に思いを馳せた。それくらい、強烈なパワーがある作品だった。

これが左のパネル。多くの人々が倒れ、馬も体制を崩し、多くの矢や槍、剣が飛び交う。優勢なのはアッシリアである。

この凄まじい3枚には、ただただ圧倒された。

この戦いでエラムは負け、アッシリアの属国となる。しかし、エラムはそれでもずっとアッシリアに反発する機会を狙っていたのである。

このエラムとの戦争の後、アッシュールバニパルは実の兄と戦争をすることになってしまう。

特別な領地であったバビロニア

アッシリアが支配していた国の中には、バビロニアという国があった。バビロニアは代々のアッシリア王たちに反乱を起こしており、隣の国で、アッシリアが嫌いなエラムもそれをサポートしていた。バビロニアはアッシリアの領土でありながら反発を続けており、アッシリアの王たちを悩ませていた。

バビロニアは統治する国の中でも別格として扱われており、アッシュールバニパルの父は、直々にアッシュールバニパルの兄、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロニアの王とした。

アッシュールバニパル王と兄の確執

そう、アッシュールバニパルは、長男ではなかった。しかし、父はアッシュールバニパルにアッシリア王位を授け、兄のシャマシュ・シュム・ウキンには統治国のバビロニアの王位を与えたのだった。つまり弟の地位>兄の地位となったわけだが、当然兄は気に入らない。

兄はアッシリア王位を弟から奪おうともくろんだ。そもそも自身の治めるバビロニアはアッシリアに反発していたのだから、国民をその方向に持っていくのは容易に思われた。

しかし王位奪還計画にアッシュールバニパルが気づき、バビロニアで大きな戦争が始まった。アッシュールバニパル王が優勢となり、ついに兄弟戦争は兄シャマシュ・シュム・ウキンの死によって終わりを告げた。

その後アッシュールバニパルは兄側についたエラムに制裁を加えるため、再びエラムに攻め込んだ。首都のスサはアッシリア軍に占領され、ここでエラム国の歴史は一度終わることとなる。

アラブ人との抗争

兄のシャマシュ・シュム・ウキンをサポートしていた者たちの中に、いくつかのアラブ人の集団も混じっていた。アッシュールバニパル王への忠誠を破り、兄側についた者もいた。

エラムとの戦争の後、アラブ部族がアッシリア内の街を襲撃。今度はアラブ人を制圧するための戦いに突入した。戦争に次ぐ戦争である。

これがその様子を表したレリーフ。ラクダに乗っているのがアラブ人だ。

最下部のパネルには、ラクダに二人乗りをしながら矢を射るアラブ人が描かれている。体の形や口元、足の蹄まで、馬とは異なるラクダの身体的特徴がよく捉えられている。

これらの戦争のレリーフは、そのほとんどがアッシュールバニパル王の北宮殿に設置されていたものだ。

アッシリアは数多の戦争に勝利した。支配した国や部族は、帝国内の別の場所で暮らすよう移動させられた。これはその様子。

肩に子供を乗せた女性の後ろには、監視役のアッシリア兵が歩いている。こうした捕虜には、食料やサンダル、衣服などが与えられた。女性や子供は軍隊に仕えたり、奴隷として引き渡されることもあったという。

王の死と帝国の滅亡

上記のように、多くの地域を支配下に治めたアッシリアだが、滅亡の足音は徐々に近づいていた。

さまざまな民族や部族を支配していたため、帝国内での反発や独立をめぐっての抗争は耐えることがなく、国内での混乱が高まった。アッシリアのエラム国の支配力も薄れ始め、その後エラムはまた復活する。

アッシュールバニパル王の後半生については、記録がほぼ残っておらず、いつ退位したのか、いつ死んだのかは謎に包まれている。彼の記録として最後の文書は、紀元前638年のもの。彼が宮殿で祈る様子や、過去の偉業について書いた内容であった。

退位または死亡は紀元前631年頃ではないかとされている。この頃から、アッシリアが急激に崩壊の一途を辿ったことがわかっている。

アッシュールバニパル王の後を継いだ息子、シン・シャル・イシュクンはこの混乱の間に暗殺され、アッシリア最後の王として生涯を終えた。ニネヴェでは盗みがはびこり、火がつけられ、すべては焼け落ちた。

そしてアッシリアは過去の帝国となった。この帝国崩壊は、聖書、古代ローマ・ギリシャの文学作品などにたびたび登場したが、実際に帝国の遺跡が考古学的な日の目を見るのは1840年代のことであった。

イギリスによるアッシリア遺跡発掘

Discovery of Nimrud Frederick Charles Cooper (1810 – 1880), Nimrud, mid-19th century, watercolour on paper
© The Trustees of the British Museum

ニムルドというニネヴェのすぐ南にある街には、アッシリアの遺跡が多く眠っていた。ここを最初に発掘したのが、イギリスの考古学者ヘンリー・レヤードである。彼は1845年~1851年に発掘作業を行い、多数の遺跡、遺品を発見した。

レヤードは、発見した10組近くのラマッス(上図の人頭有翼獣)のうち2組を、1847年にロンドンに運んだ。この実物が、大英博物館の常設展示室で見られる。

ちなみに、このニムルド遺跡は、イスラム国の攻撃によって2015年に破壊されてしまった。

無料の常設展で見られる「ライオン狩り」

大英博物館正面入口を入ってすぐに右に曲がり、ギフトショップがある廊下を抜けると、常設のアッシリア文化展示室(第7室)に出る。

そこで客を出迎えるのが、レヤードが発見し持ち帰ったラマッスたちそのもの(実物)である。この像はアッシュールバニパル王の時代より200年ほど前に作られたもの。

このラマッスは、顔がひげの生えた人間、翼を持ち、体がライオンの想像上の生き物。正面から見ると前脚が2本見えるが、横から見ると脚は4本。計5本の脚を持つ表現で有名である。

この門をくぐって中に入ると、アッシュールバニパル王の「ライオン狩り」とその他のレリーフ作品がずらりと並んでいる。これは常設展示で、無料で見られる。今回の特別展に展示されていた「ライオン狩り」の一部も、ここから持ってきたものだ。

中はこのような回廊になっている。

アッシュールバニパルが多数のライオンを狩っている様子が見られる。

こちらのレリーフは特に迫力があって私は大好きだ。

チャリオット(馬車)に噛みつくライオン。珍しく正面から見た顔が表されている。

こちらを睨みつけるライオンの鋭い眼光は、一度見たら忘れられない。この迫力。これが紀元前600年前に作られたものなんて信じられようか。これを制作した人物は、人類史上で超一流の芸術家である。

狩られたライオンが運ばれていく。複数の男たちがライオンの体を抱える様子が明確に描かれていて、彼らがこの大きな獣をどのように運んでいったのか、まるで写真を見ているかのようにわかる。

回廊を抜けた先には、今度は牛の体を持つラマッス。足が蹄になっている。こちらもやはり5本脚だ。


大英博物館「I am Ashurbanipal」

住所:Great Russell St, Bloomsbury, London WC1B 3DG

料金:大人17ポンド、学生14ポンド

その他の大英博物館展示(常設展、特別展)の紹介はこちらから。