私たちは自然をどう見てきたか―分類学の発展と自然界の「改変」

2018年7月5日

ウェルカム・コレクションで始まった展示、「Making Nature: How we see animals」(~2017年5月21日まで)に行ってきた。

私たち人間が、自然界をどのようにとらえてきたか、その歴史をたどる展示だ。

「我々がどのように自然界を捉えているのかを考えることは、私たち自身のこと、人間の地球上での立ち位置を考える基本となる。人間と、人間ではないものの相違点・類似点は古代ギリシャの時代から常に探求されてきた。しかし科学的なアプローチは18世紀になるまでされてこなかった。

『分類学』—名前をつけ、特徴を記録し、分類する—とは、客観的に動物界を階層分けし、並べる作業であり、今や日常の様々な物事に結びついている。」(展覧会入口パネルより)

「自然の観察」は人類の普遍的なテーマである

人類はずっと自然を観察してきた。これは抗えない人間の性質というか、自然の中に生まれた人類の定めというか、もう持って生まれた特性なのだ。
自然科学者だけではない。数学者も、芸術家も、文学者も、哲学者も、どんな人もずっと自然を観察してきた。

すべての学問、というか人間界のすべてのものは自然を観察することから発生した、と言える。

ただ皆、表現の方法が違っていただけだ。ある人は自然の観察から美しい文章や美術や音楽を生み出し、ある人は天気や天文の法則を見つけ出し、そこから物理や数学が生まれた。それを土台にして現代の私たちは生きている。

「我々がどのように自然界を捉えているのかを考えることは、私たち自身のこと、人間の地球上での立ち位置を考える基本となる。」という上の説明文には全くその通り、とうなずいてしまう。

分類学の発生、発展

カール・フォン・リンネ 「Systema Naturae」(1735年)

教科書に一度は出てくる、分類学の父、リンネ。

彼の著した「Systema Naturae(自然の体系)」は、動物、植物、鉱物を体系的に分類した初めての書物だ。

現在も動物の分類に使われている、2つの語を組み合わせて作る学名のシステムは、リンネが生み出した。例えば、人間の学名は「Homo sapiens=ホモ・サピエンス」だ。

だが、自然界を「分類」しようとしたのは、リンネが全くの初めてではない。

リンネより200年も前、1551~1558年に「動物誌」を著したスイスの博物学者、コンラッド・ゲスナーがいる。植物学者として有名だった彼の著書には、「植物誌」もある。

この「動物誌」が、現代の動物学のスタート地点だとみなされている。リンネはそれをさらに科学的なアプローチを加えて発展させたのだ。

ちなみに、リンネの時代の18世紀は、ヨーロッパ全体で「分類」が流行った時期で、世界で初めての百科全書( L’Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres)もこのとき作られた。

中国での動物の14の分類

20世紀の作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスのエッセイによると、古代の中国の百科事典では、動物は14種類にわけられていた。エッセイの中の、

これが、なかなかに支離滅裂で面白いのだ。ボルヘスはアルゼンチンの作家なので、もとはスペイン語だったようだ。

  1. 皇帝の動物
  2. 防腐処理をした動物
  3. 手なづけられたもの
  4. 子豚
  5. 人魚
  6. 幻獣
  7. うろうろする犬
  8. 上記の分類に入るもの
  9. 狂ったように身震いするもの
  10. 無数にいるもの
  11. ラクダの毛で作った高級筆で描かれたもの
  12. その他
  13. 壺を割ったもの
  14. 遠くからだとハエのように見えるもの

何だこれ…と思って検索しても、なかなか出てこない。8番とか、数増やすために無理やり作ったとしか思えないぞ。

日本語のブログでひとつ、砂手紙さんという方がこれについて詳しく書いていたのを見つけた。→ボルヘスが紹介した中国の不思議な百科事典と謎の「バルサム香で防腐処理したもの」(砂手紙のなりゆきブログ)

原典の「古代中国の百科事典」について考察されていて興味深い。
英語のWikipediaによると、学者の間では、この百科事典は存在した証拠がない、と言われているらしい。中国語-ドイツ語の翻訳家であり、この百科事典の訳者とされるランツ・クーンという人物が、実際この書物を訳していたかどうかも疑問視されているようだ。

今回の展示では何も詳しいことが書かれていなかったが、ひとつ、ボルヘスの言葉が紹介されていた。

「この分類を、ボルヘスはこう結論付けている。『恣意的で推測に満ちていて、まったく分類になっていないことは明らかだ』
その通りだ!

シャルル・ボネの自然界の階級(1783年)

18世紀のスイスの博物学者、シャルル・ボネによる「自然界の階級(idea of the ladder of natural beings)」を書いたリストがあったが、これがなかなか興味深かった。全部で52位まであり、1~10位まではこんな感じ。

  1. 人間
  2. オラウータン
  3. サル
  4. 四足獣
  5. ムササビ/モモンガ
  6. コウモリ
  7. ダチョウ
  8. 鳥類
  9. 水鳥
  10. 水陸両生の鳥

10位と9位は同じではないのか…?とは思うが、当時の発展途上の分類学では違ったのだろう。
ちなみに11位はトビウオで、また5位、6位をわざわざわけるあたり、「飛べる能力」がこのリストでは優遇されているようだ。

後半の方には、植物や鉱物が続く。

学者を大混乱させたカモノハシ

18世紀は未知の生物を発見するために、西洋人は世界中を探検した。

その姿を正確に伝えるために、剥製技術も発展した。

その中で、カモノハシは白熱した議論を巻き起こした動物のひとつだ。毛皮を持っていて哺乳類のようだけれど、アヒルのようなクチバシと足がある。

カモノハシの剥製を作ることは、パズルのようなものだった。最初の1体目の標本を、学者たちは作りものだと考えたという。

自然を観察した人たち

観察抜きには分類学は発生しなかっただろう。もちろんリンネも自然界を観察していた。

博物学者だけでなく、自然界を観察して、結果偉大な功績を残した人は多くいる。

ビアトリクス・ポター

「ピーター・ラビット」の作者、ビアトリクス・ポターは、生粋の写実主義者で、ロンドン自然史博物館で、動物の標本を見ながら、写生と勉強を繰り返したという。

彼女の作品には、服を着て二本足で立つ、擬人化されたような動物がメインで出てくるが、その基盤には、彼女が徹底的に取り込んだ動物の骨格、体の描写の正確さがある。

ウォルター・ポッター

 観察から、剥製技術も生まれた。
ウォルター・ポッターはアマチュア剥製師だったが、動物を擬人化した剥製で一躍名声を得た。

ジオラマ的な作品が多い。

展示されていたのは、服を着てトランプ遊びをするリスの剥製だったけれど、雰囲気としては上の写真のような感じで、なんかシルバニア・ファミリーみたいな感じ。

シルバニア・ファミリーの原型はもともと遊び心のある剥製が起源のような気がする。それは言い過ぎか。

自然を模造・改変する

Louis Auzouxの馬の歯の模型(1890年代)

フランスの解剖学者が Louis Auzouxが作った、馬の歯の模型29セットが展示されていた。人間の入れ歯のような感じ。
29個も並んでいるとアートのようで壮観。

この模型は、馬を買う人が、馬の年齢を歯から判断するときや、その馬の癖(噛みすぎるとか、柵など硬いものを噛む癖があるかとか)を見分ける資料として使われた。

ちょっと気味悪いけれど、見たい人は画像検索で「Louis Auzoux horse teeth」とかで検索すると出てくるよ。

Reginald Punnettの鶏の頭の模型(1930年代)

イギリスの遺伝子学者が作った、これまた鶏の頭部の模型11セット。これは画像検索しても出てこなかった。

様々な種類の鶏の、オスとメスの模型だ。

農家がオスとメスをトサカの形状や色から見分けるための資料として使われており、これが世界で最初のauto-sexing(外見で雌雄を見分ける判別方法)の例となった。

人間が意図的に改良した動物「マラリアを媒介しない蚊」

実験や愛玩のため、人間は様々な動物を品種改良してきた。

この展示では、その例として、フィンランドのアルコール依存症の実験に使われていたアルコール依存症のネズミ、妊娠検査薬の実験に使われていたカエル、マラリアに耐性のある蚊、有害であるはずの菌類に強い栗の木などが紹介されていた。

「マラリアに耐性のある蚊」とはどういうことか、と思って調べてみたら、こんなニュースを見つけた。→Researchers Have Created Malaria-Resistant Mosquitoes

科学者が、マラリアを媒介しない蚊を遺伝子操作で作り出したというのだ。

セキセイインコの羽の色に見る品種改良

5~6個体ほどの、セキセイインコの標本があった。

自然界のセキセイインコの色は、基本黄色か緑色に、黒縞が混ざったものだったという。
この2世紀で、品種改良によって、白、青、灰色、それぞれの色が交じり合ったものなど、多種多様な色が生み出された。


全体を見て改めて感じたのは「人間は自分の都合のいいように自然を分析して利用している」ということ。

そして、それでいい、と思う。だってそれしかできないから。

自分と関わることしか一生懸命になれないのは当たり前。どの生き物でも自分中心に生きている。

寄生虫なんかは、自分が生きるためなら他の動物の体にどれだけ危害を加えても大丈夫なわけだし、もっと残酷に他の生き物を利用する生き物もたくさんいる。人間もそれと同じで、それ以上でもそれ以下でもない。生き物の種類が違うだけ。

なんて、ちょっと壮大なスケールで人間を見れた気がした。