美貌で貧民から上流階級に上り詰めたミューズ、エマ・ハミルトン

2017年12月12日

エマ・ハミルトンというイギリスのファム・ファタールをご存じだろうか?

ファム・ファタールとは、もとはフランス語から派生した、「運命の女」の意味。男性を破滅させる魔性の美女という意味でも使われる。

さまざまな男性の「ファム・ファタール(運命の女)」または「ミューズ(女神)」となったエマは、貧困階級に生まれ、一時期は娼婦にまで身をやつしたものの、その美貌で上流階級まで上り詰めた女性だ。

そんな彼女の生涯を明らかにした展示「Emma Hamilton; Seduction and Celebrity」(~2017年4月17日まで)がNational Maritime Museum(国立海洋博物館)で開催されていたので行ってきた。

この博物館は、グリニッジ天文台で有名なグリニッジにある。グリニッジはロンドンのゾーン3にある。電車も通っているが、テムズ川を走るフェリーに乗っても行けるので、今回はフェリーを使った。

グリニッジの海洋博物館へフェリーで向かう

家の近くのロンドン塔のフェリー乗り場から。

ここはテムズ川。水鳥がたくさん浮かんでいて、「わーかわいい」と見ていたけど、よく見たらそのうち一羽はビニール袋だということに気づいてなんかむなしくなった。

フェリー乗り場でグリニッジに行くフェリーを待つ。

フェリーでロンドンのシンボルとでもいうべき、タワーブリッジをくぐって進む。

グリニッジまではフェリーで15分くらいとごく近い。フェリー内にはちゃんとしたカフェがあって、各種飲み物や軽食を買うことができる。

グリニッジで降りて広い公園の中を歩く。

この巨大な船は19世紀の快速帆線カティサーク号。中国からイギリスまで高速で茶を運ぶため(ティークリッパー)に作られた。現存する唯一のティークリッパーだ。

National Maritime Museumの入口。

ではここから、「エマ・ハミルトンのファム・ファタール的人生」を見ていこう。

貧しい田舎娘がロンドンへやってきた

1765年、イングランド北西部のチェシャーで彼女は生まれた。若いころにロンドンに移り住み、家政婦として働き生計を立てていた。

だが、14~16歳頃には娼婦の道に入ったとみられている。

当時の彼女の住まいであり、今はロンドンの一大観光地となっているコベント・ガーデンは当時性産業が盛んな土地だった。また当時は多くの女性たちは生きるために娼婦にならざるを得ないという時代背景もあった。

美しさで有名になる

15歳のとき、Sir Henry Fetherstonhaugh という準男爵の愛人となった彼女は、彼の子供を身ごもる。

© National Trust / Andrew Fetherston

だがヘンリーはそんなエマに怒り、彼女をのけ者にした。その時の子供は祖母に預けられ、育てられたという。

余談だが、Sir Henry Fetherstonhaugh は敬称である「サー」がついており、準男爵という地位にあるが、カテゴリとしては平民である。ある程度のお金を出せば手に入れられた称号で、貴族には入れられなかったようだ。

エマは17歳になるまでに、その美貌で社交界での地位を徐々に上げていった。

画家ジョージ・ラムニーの「ミューズ(女神)」に

チャールズ・グレヴィルという貴族と恋に落ちたエマは、ジョージ・ラムニーという画家を紹介される。

ここで、グレヴィルのファム・ファタールだけでなく、ラムニーの「ミューズ(女神)」となったのだった。

この展示では、ラムニーの描いた美しいエマのポートレイトの数々を見ることができた。

ジョージ・ラムニー「Emma as Circe」1782年

Circaとは、ギリシャ神話の魔女キルケーのこと。もとは愛の女神であった。

ラムニーはよく、エマをギリシャ神話の女神やシェイクスピア作品の登場人物に見立てて描いた。地位を持っていない彼女の「だれでもない」匿名性が、彼のインスピレーションを自由にはばたかせた。

ジョージ・ラムニー「Emma as a Bacchante」1785年

Bacchanteとは、ワインの神であるディオニュソス(またはバッカス=Bacchus )の女性信奉者。ディオニュソスに理性を失わされ、暴力や性交などに及んだとされる。

こんな題材を、貴族の女性をモデルにしては描けないから、美人で地位のないエマは格好の題材だったのかもしれない。

これが描かれる2年前にエマは、グレヴィルの叔父であるサー・ウィリアム・ハミルトンという貴族に会い、彼が注文してできたのがこの作品だ。このハミルトン氏が、将来のエマのパトロン兼夫となる。

ジョージ・ラムニー「Emma as a Bacchante」18世紀

ジョージ・ラムニー「Emma as the Spinstress」1782-85年頃

この作品は、エマの日常生活を見せるような作品だ。糸つむぎをしている労働階級の女性風だが、その顔の美しさ、唇や目元の艶やかさをありありと描いている。

庶民にも女神にもなれたエマは、ラムニーにとってはのめり込めるモデルだった。 

貴族ウィリアム・ハミルトンと結婚

恋人グレヴィルにナポリに連れていかれたエマは、ナポリに駐在するウィリアム・ハミルトンと出会う。

1787年、エマが22歳になるまでにはウィリアムの愛人となっていたことがわかっている。そのときには、グラヴィルには正式な結婚相手ができており、「ちょうどよかった」のだという。

ウィリアムはエマにぞっこんになり、グラヴィルへの手紙で「彼女の音楽の知識は素晴らしい」とその素養もほめている。

ウィリアムと上流階級の社交界に出入りすることは、エマの教養をつけることに大変役立った。

そしてついに、1791年にウィリアムとエマは結婚し、エマは正式に貴族の妻となった。

その直前に描かれたエマの肖像画がある。野性味を帯びた美しさを持ったエマだ。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 「 Lady Hamilton as a reclining Bacchante」1790年

エリザベートは18世紀に最も有名だった女性画家。この自画像が有名かな。↓

彼女はエマのことをあまり評価していなかったみたいだが、それでもこんなパワフルな肖像を残すほど、その輝くばかりの存在感は認めざるをえなかったようだ。

上流階級では最後まで完全に受け入れられたわけではなかった

「品行方正のお手本になれたらいいと思っているわ。美しい女性皆が皆、頭が足りないわけではないって世間に見せてやりたいの」(エマ 1791年)

14年間で、彼女は上流階級の中でも最高のハイ・ソサイエティに属すようになり、ナポリの女王とも親しくなる地位までのぼりつめた。その名声はヨーロッパ中に広まっていったのである。

だが、当時のハイ・ソサイエティでは出自が重要視されており、きちんとした出自でないエマは、貴族の家系を持つ女性たちのように完全に受け入れられるとまではいかなかった。

作家ゲーテをも魅了した舞踊

トーマス・ローレンス「Emma as La Penserosa(物思いにふけるエマ)」 1791-92年

ウィリアムの愛人時代から発表していた「Attiude」という、踊りと演技を組み合わせたパフォーマンスは、エマをますます有名にした。多くの知識人が魅了され、その中にはあの偉大な作家、ゲーテもいた。

エマはギリシャ神話の女神や女王クレオパトラなど、さまざまな女性像をそこで演じた。

ナポリだけでなく、スペイン、パリ、ロンドンなどにも広まった名声は、彼女を当時のファッションアイコンにも押し上げたのだった。

ネルソン提督とダブル不倫

べタぼれしてくれている夫ウィリアムがいるのにも関わらず、エマは英国一の英雄、ネルソン提督と恋に落ちる。2人の関係は1799年からイタリアで始まったとされる。

ネルソン提督の名前は教科書で見たことがあるという人は多いだろうが、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで指揮をとったイギリス海軍提督だ。トラファルガー海戦でも、フランス・スペイン連合艦隊を破りイギリスを勝利に導いた。

ネルソンにも妻がおり、いわゆるダブル不倫の状態となってしまった。

このスキャンダルは2人の名声に傷をつけた。とはいえ、ネルソンはエマと付き合っていた6年間のほとんどを海上で過ごしていたため、2人のやりとりは手紙が主だったという。

1800年、ウィリアムとエマはナポリからロンドンに戻る。エマのロンドンへの帰国を、新聞もこぞって取り上げた。

翌年、なんとエマはネルソンの子供を出産する。それでもウィリアムと同居し続けるという、不思議な家族関係が続いた。

上流階級からの転落

相次ぐパトロンの死

夫ウィリアムは1803年に亡くなり、ネルソン提督は、1805年にトラファルガー海戦で受けた傷がもとで、イギリス勝利の報告を聞きながら戦死した。

夫ウィリアムと愛人のネルソン、どちらも相次いでなくなり、後ろ盾をなくしたエマは、見る見る間に落ちぶれていった。

美貌も衰える

ジェームス・ギルレイ「Dido in despair!」1801年

エマがロンドンに戻ってきた直後、36歳の時に描かれた風刺画。醜く太ってしまい、美貌の影もなくなってしまった姿を、皮肉って描いたものだ。彼女の後ろには眠る夫が描かれている。

下部に書かれた文章は、エマのネルソン提督に対する叫びが描かれている。このとき、ネルソン提督は第2子を妊娠したエマの傍にはおらず、また海に出ていた。

‘”Ah, where, & ah where, is my gallant Sailor gone” ? –
“He’s gone to Fight the Frenchmen, for George upon the Throne,
“He’s gone to Fight ye Frenchmen, t’loose t’other Arm & Eye,
“And left me with the old Antiques, to lay me down, & Cry.’

簡単に訳すと、「私の勇敢な提督はどこへ行ってしまったの?」「フランス兵と戦いに行ってしまった」「そして腕と目を失ってしまった(ネルソンは戦中片腕を失っている)」「古い家具と一緒に私を置き去りにして、私はただ泣いている」などと書かれている。

この数年後に相次いで2人のパトロンを亡くし、エマの経済状況は一気に悪化した。

武器であった容姿も衰えたエマには、人生で身に着けた教養がまだあったとはいえ、世間の関心はもう集められなかった。

50歳で迎えた悲惨な最期

ウィリアムによって残されたわずかな遺産も食いつぶし、遺された家も売りに出すほど、エマは多額の借金を抱えていた。借金によって逮捕されたこともあった。

一時期上流階級の仲間入りを果たしたファム・ファタールは、その後パリに逃亡し、アルコール依存症となって50歳で人生の幕を閉じた。


波乱万丈すぎる人生だったが、美貌だけでここまで成り上がれる物語が本当にあるのだな、と感心してしまった。

肖像画を見ればその美しさは一目瞭然だが、写真でも見てみたかった。

この展示を見たことで、彼女もまた、私の中の「イギリスの耽美」カテゴリの仲間入りをしたのであった。