蓄積した知識がつながり、点と点が線になる心地よさ

人生・仕事

知識の欠片が徐々に溜まっていって、いつか不意に、つながる時がある。その時の感覚が心地よい、と思う。

バラバラだった知識が一つのまとまりになる

どういうことかと言うと、普段見たり聞いたり読んだり気になって調べたりして得た情報が、その時は何でもなくても、頭のどこかに収納されていて、ある時不意に他の情報と結びつくことである。それが私は大好きなのだ。

バラバラの点だった要素が、線として結びつくことがある。

例えば、私は日々、仕事に限らずこのブログでも何でも、自分が書く記事の企画を考えることが多いわけだが、そういう時に「点と点が線になる」ことが多い。

例えば、先日書いた記事「イギリスは自殺対策ホットラインの発祥地。現在はどんなサポートがあるのか」について。ある時ふと興味がわいてイギリスの自殺対策について調べてみたのだが、その時出てきた「Samaritans」という単語を見て、以前ロンドン科学博物館で見た展示が頭に浮かんできたのだ。

この「Samaritans」とは、自殺対策ホットラインのことを指すが、イギリスのみで使われる単語だ。なので普通に生活していたら(そのサービスを使っていなければ)、普段見ることはない言葉である。

だが、記憶の中でこの単語に見覚えがあった。科学博物館で古い電話機が展示されていて、「イギリスはsamaritansを世界で最初に作った」という説明書きがあったな、と思い出したのだ。この単語を見るまでこの単語はもちろん、その展示を見たことも忘れていた。それで、その歴史を深く調べたり、現在のサービスを調べているうちに、「結構色々な情報を知ることができたから、それをまとめてブログに書いたら、誰かの役にも立つことがあるかな」となったわけだ。

仕事で記事の企画をたてるときも、往々にしてこうしたプロセスで、過去に私の中に蓄積した何らかの知識や記憶の断片がつながって、アイデアが生まれることが多い。

もちろん、それ以外だって、この体験はいつだって起こりうる。私は美術館や博物館によく行くが、ある展示から全く別の展示で見た物がつながることは頻繁にあるし、本で読んだもの、映画で見たもの、人から聞いた話、あらゆる時にこれは発生する。

点と点が線になる。これを、私は「理解」の初めの一歩だと思っている。

「歴史」というものを理解した瞬間

もうかなり前のことにさかのぼるが、強烈に記憶に焼き付いている経験がある。大学受験を控えていた私は歴史では世界史を専攻していた。試験に受かるには歴史科目を相当やりこむ必要があり、主要な文明・国を同時進行で見られるノートも自作して、せっせと世界史を覚えていた。

ある時にふっと気づいた。歴史は一つの壮大な物語なのだ、と。

それまで
・〇〇年、XXの戦い
・〇〇年、△△事件
などの、ただの単発の点であった一つ一つの歴史上の出来事、登場人物の一人一人が、線としてつながったのである。

あるイベントや人物はまた別のイベントや人物から影響を受け、さらに他のイベントや人物に影響を及ぼしていく。物事には常に必ずそれが起こる理由(背景)があり、そしてその結果また何かが起こるのだと。これが私の「エウレカ!」の瞬間であった。

そこから、私の歴史の理解はうなぎ登りになった(※当社比)。もちろんテスト上の点数もあがった。

今から考えれば当然のことなのだが、ただ年表の出来事を詰め込むように勉強していただけの私には衝撃的な体験であった。これは私の「理解」の概念を根本的に変えた。


この世には知らないこと、理解できないことが数えきれないほどたくさん、ふよふよと存在していて、それらは全部点に見える。でも、いろんなものを見たり触れたり体験しているうちに、かするものが出てくる。そしてだんだんと線になる。

その感覚が、なんだかとても心地よい。癖になるのだ。「やってやった」とでもいう感じだろうか、ある物事が知らないものから少しだけ知っているものとなった感覚とでも言おうか。

完全に自己満足でしかないのだが、日々そんなことを思ってはちょっとニヤッとしている。
そして、こうした感覚をもっと味わいたいがために、やはり色々なところに行き、色々な物を見て、体験して、人と話すのは大切だと改めて思うのである。